コラム
『九谷焼 新たな息吹:加賀藩前田家から招聘された再生の先駆者 青木木米』
『九谷焼 新たな息吹:加賀藩前田家から招聘された再生の先駆者 青木木米』
2024.06.17 #九谷焼の絵柄

九谷焼 の 伝統画風 ③木米風

木米(もくべい)は、 九谷焼 に新たな息吹を吹き込んだ京焼の名工であり、加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力しました。

木米のデザインは、現在も多くの窯元で重宝されています。

九谷焼 木米

歴史的背景

青木木米(※)は1767年に京都で生まれ、幼少期から文人画を学びました。

29歳の時に清朝の陶磁器に関する書物『陶説』と出会ったことをきっかけに、作陶を志し、京焼の名工・奥田頴川に師事しました。

木米は30歳で京都に窯を開き、作品の制作を開始しました。1807年には加賀藩前田家から招聘を受け、金沢の春日山窯で九谷焼の再生に尽力しました。

この時期、加賀藩は古九谷の技法を再現し、九谷焼の復興を目指していたのです。

木米の技術指導は、九谷焼に新たな命を吹き込み、その後の九谷焼発展に大きく寄与しました。

技法と特徴

木米の作品は、赤絵、染付、青磁、南蛮写しなど多岐にわたりますが、特に赤絵の作品が知られています。

木米は中国陶磁器の影響を受けたデザインを取り入れ、人物や仙人、唐子などを描いた呉須赤絵写しが特徴です。

また、木米はその絵付け技法においても卓越しており、作品には文人としての繊細な感性と高い技術が反映されています。

加賀藩の庇護の下、春日山窯で作られた作品は九谷焼に中国風の要素を取り入れた独自の作風を確立しました。

九谷焼 木米

現代の 九谷焼 への影響

木米がもたらした呉須赤絵を基本とする色絵の技術は、九谷焼に深い影響を与えました。

木米の技法やデザインは、若杉窯や宮本窯といった後の九谷焼の重要な窯元に引き継がれ、今もなお生き続けています。

 

 

まとめ

木米は、九谷焼の歴史において重要な役割を果たした京焼の名工であり、木米の作風と技術は現代の九谷焼に多大な影響を与え続けています。

作品には、中国陶磁器への深い理解と日本独自の美意識が融合しており、木米が加賀藩前田家の招聘を受けて九谷焼の再生に尽力したことは、九谷焼の発展において重要な転換点であり、その影響は今後も続いていくでしょう。

木米については書籍がたくさん出ています。興味のある方はお読み頂くと一層九谷焼を楽しめるかと思います。

・京焼の名工・青木木米の生涯 (新潮選書) https://shinshomap.info/book/9784106035067.html

 

(※)青木木米

1767年、京都の茶屋に青木木米は生まれ、幼名は「八十八」という。

文人画を学ぶ傍ら、29歳のとき文人・木村蒹葭堂と知り合い、彼の書庫で清の朱笠亭が著した『陶説』に出会う。

この陶技書を読んだことが、作陶を志すきっかけとな理、その後、京焼の名工・奥田頴川に入門し、30歳で京都・粟田口に窯を開き独立した。

作品は煎茶器を主に制作している。白磁、青磁、赤絵、染付などその作域は幅広く、特に中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに名品を残している。

「木米」の号は、生家・青木から「木」の一字と名「八十八」を「米」字にまとめて「木米」とした。

晩年は聴力を失ったことから、「聾米」と号するようになった。そのきっかけは、陶磁器の焼成時に窯のそばに耳を近づけ、窯から聞こえる音により、焼成具合を判断したためだと言われている。

1833年に死去。

木米は、十一代永樂善五郎保全、二代高橋道八・仁阿弥道八とともに京焼の幕末三名人と呼ばれた。

野々村仁清、尾形乾山から続く京焼の基礎はこの三名によって確立されている。

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